SQ-CUBE CUPでの判定説明の前に、ノーレット/レット/ストロークの判定に関する一般論を述べる。「聞きたいのはそんなことじゃない!」だろうけど、本題を説明するのに一般論を理解してもらうことが必要だと考えるからだ。また、私が思っていた以上に一般論は理解されていないと感じたからでもある。わかっている方には言わずもがなではあるが、お付き合い願いたい。
以下の場面を想定して欲しい。
(プレーヤーは2人とも右きき)
プレーヤーAがコート左前方からバックハンドクロスドライブ
→プレーヤーBはフォアハンドボレーでストレートロングドライブ
→Aはこれを追ってコート右後方に向かって走りだしたが、Bとぶつかりプレーが止まる(図1)

→Aはレットをアピールする
ここで審判は考える、
「もし、プレーヤーBによる妨害がなく、プレーが続いていたとしたら」、
「プレーヤーAはボールに追いつき、有効なリターンをすることが可能だった」のか、あるいは
「Aはボールに追いつけず、有効なリターンはできなかった」のかを。
「アウトorイン」や「ワンバウンドorツーバウンド」は客観的事実に対する判定なのに対し、この「レットorノーレット」の判定は、事実に対してなされるのではない。「どのような“実際には起こらなかった(その時点での)未来”を想像するか」に従ってなされる。
この想像は、「織田信長が本能寺で斃れず、その後も天下統一に向けて活動を続けていたら、今頃日本はどうなっていたか?」という謎掛けと同様のものである、スケールや選択肢の幅はずいぶん違うけど。
「日本の首都は現在の滋賀県安土町になっていた」や「日本の公用語はポルトガル語になっていた」といった説は、どんなにリーズナブルな説明を備えようとも、その正しさを実証することはできない。同様に、間違っていることを証明することもできない。「なるほど、確かに安土が首都になったかもしれない」や「そんなことありえへんやろ〜!」といった妥当性の程度差があるだけだ。
既に過去となった出来事に関して「もし○○だったら、どうなっていたか?」という問いに対する、“客観的に正しい答え”や“客観的に間違っている答え”は存在しない。あるのは、「私はこうだと考える」という“主観”だけである。
プレーヤーAは主張する、「オレの脚力ならあのボールには追いついている。Bが邪魔にならなかったら有効なリターンができたんだ!」と。
一方のプレーヤーBは、「いや、Aの位置やボールのコースからAは追いつけない。もし仮に追いついたとしても、その時点でツーバウンド目がバックニックに入っている。有効なリターンはできない」と譲らない。
これらは、それぞれAの主観、Bの主観を述べている。
審判が下す判定も、『審判の主観』を示す行為である。どれかが客観的に正しく、客観的に間違っているのではない。
観客席にいたCさんは、「あれは明らかにノーレットだった」と言う。これは、『Cさんの主観では明らかにノーレットだった』ということである。Cさんが「明らかにノーレットだったのだから、レットと判定するのは客観的にオカシイ」と主張するのは論理的でない。「Cさんの主観では、レットと判定するのはオカシイ」ということなのだ。
「明らかにノーレット」を証明するには、全く同じ場面を再現し、プレーヤーBをどけてプレーヤーAにボールを追わせて、その結果追いつけないところを見せつけなければならない。もちろん、証明は不可能である。
もうひとつ。
(図1)は、「審判の頭の中で描いた位置関係」ということである。ところが、プレーヤーAの頭の中では(図2)が描かれているかもしれない。

位置関係は客観的事実だから、“客観的に正しい図”が存在するはずである。しかしそれでも、それぞれが頭の中で描く図が大きく違うことがある。見る位置によって図は違うものになったりもする。それぞれの主観で図を描くからである。
ノーレット/レット/ストロークの判定は、主観によってなされる。客観的に正しい、あるいは客観的に間違っている判定は存在しない。そうゆうものがあると思い込んでいると、理解できない世界がある。